那須野が原の元日

日の出30分前。なぜか日の昇る位置より東の白川方向が赤く染まります。

元旦の『初日の出』ちょうど7時です。

初詣は那須野が原の最西端、板室本村『大日堂』へ行きました。

大日堂、本尊は大きな銅製の大日如来です。地元高林にある熊久保酒造の清酒『平和寿』をお供えしました。

白湯山碑にはお神酒をいっぱいかけました。その昔、四月八日の白湯山山開きにはここが一ノ木戸(出発地)となり体を清めた大勢の行者さんが陸続と御宝前を目指し山を登ったそうです。 当時は神仏混交か下では別当は(法膳寺)で上の御宝前には祠があり(温泉神社の札が入っています)祝詞(のりと)を唱えるのでしょうか?

  《いずれにせよ再開が待たれます》

 

ついでに近くにある『板室本村一里塚』へ行き《正月は冥土の旅の一里塚》を深く感じてきました。

ここは古道・会津中街道の史跡です。昔、会津の殿様が参勤交代の時通りました。

那須野が原の冬至

那須岳の長くなだらかな裾野に昇る夏の日の出。

南の八溝山に移動した日の出。

冬至、日の出少し前。

八溝山の右、ここまで日の出は移動しました。

マックのコーヒーを飲みながら最南端に来たご来光を堪能、ドーナツからまぶしい光が届きます。

那須の山岳信仰

那須岳には高湯山、白湯山の山岳信仰がありましたが、その南の山域には黒瀧山信仰登山があったようです。

湯宮にある大日尊。ここで参詣者は三日間、堂に籠り心身を清め白装束で六根清浄を唱えながら札所を巡り、一泊二日の日程で山頂(1,754m) の黒瀧権現に参詣したとあります。

明治の末まで参詣は行われていたが、今はこの信仰登山をする人もおらず、20年位前か?地元山岳会がルート確認の調査を行った報告書が黒磯の図書館にあります。

那須岳の信仰登山ルートと比較してこちらのルートの方が岸壁、滝など厳しいと思われます。

  《どなたか山岳信仰の歴史を確認する勢いのある方いませんか》

那須の中島飛行機

80年前、大田原に中島飛行機『大田原分工場』、それ以前では那須町湯本に『占勝園』庭園そして伊王野には宇都宮製作所が山林を所有していました。

中島知久平さんが来那須したかは分かりませんが、関連をもっと調べたくなります。

ここは伊王野の専称寺、右の山林が中島飛行機の所有地と思われます。

住職が不在で確認できず。

途中にある和菓子店『おおつか』で伊王野の銘菓【夢まんじゅう/ドリマン】を買い、食らいながら行く。中にあんことクリームが入っています。

那須野飛行場を語る

先の大戦が終わって80年、戦争を実体験した人は少なくなりました。当地那須には陸軍那須野飛行場があり終戦の二日前8月13日『神鷲特別攻撃隊』が飛び立ち敵艦船へ突撃し三名の若い特攻士が亡くなっています。

特攻隊の出陣式に立ち会った人がおられるのが分かり、お話を伺ってきました。この10月で100歳になられた女性で飛行場の本部で事務を担当していて軍人の名前をよく覚えています。

当日の出陣式で、

  《本部前に整列した特攻隊員を見て、何も言えなかった》

実際の体験からの重い言葉です。

現在、那須塩原市のほとんどの若い人は飛行場があったことすら知りません。

真ん中、左から二人目が二十歳の時のご本人です。写真は『那須の太平洋戦争』からお借りしました。この写真の存在をご存じありませんでした。

 《史実は伝えていかねばなりません》

那須塩原市戦没者追悼式

市の広報誌に "戦争を知らない世代の人もぜひ参加してください” とあり出かけてきました。昨年は茶髪の兄ちゃんもいましたが、今年は若い人は全く参加なしです。

先の戦争について語っていく人も少ないが、聞く人がいなければ意味がない。

80年前、那須野飛行場から特攻で亡くなられた三名の名前を献花時に唱えました。

来年は追悼式あるのだろうか。

 

那須岳・行者道をたどる

作朝、八溝山からの日の出を見て天気は安定と判断。那須岳に向かう。

その昔、御沢を遡り御宝前を参拝した白湯山行者は三山がけと称する信仰登山を続け剣が峰を経て毘沙門嶽(朝日岳)へ登りました。

峰の茶屋(現・避難小屋)直ぐ北の『剣が峰』を超えると朝日岳との鞍部、ここに二本の岩塔(かつては三本あり、三面大黒と呼ばれていた)が聳えています。

左上に小さく穴が見えます。

近づくとこんな穴。ここを潜れば反対は断崖絶壁、ご利益どころではありません。

朝日岳の登りにかつて岩穴『胎内くぐり』があったようですが、崩壊して今はありません。

次は高湯山行者道、大丸からヨシヤジへ行く間に行者道への取付きがあると聞き探しに行くが確認できず、見当は付きました。