抱夢征空

ではないかも知れないが・・・・・
日本の小惑星探査機 『ハヤブサⅡ』 の技術はすごい、限られた予算の中で世界を抜くこの快挙。
80年前にも世界に伍して決して引けを取らない軽快な飛行性能を誇った同名の飛行機がありました。
この 『隼』 の設計者の中に戦後日本のロケット開発の第一人者糸川英夫さんがいました。
 日本は先の戦争に敗れ航空機の研究、製作を一切禁止され、天才的な航空機設計者たちは自動車、鉄道などの分野へ方向転換を余儀なくされました。 もちろん野に下っても持てる才能を発揮し素晴らしい業績を残した人もいます。 大手自動車メーカーの重役までなった人は大衆車の開発で名を残しました。 
 もし、兵器としてでなく民間向け商業機を造り続けることができたなら、これら類まれな才能の設計者は優秀な航空機を世界に沢山送り出したと考えられ真に残念です。 後年禁止が解けYS-11輸送機は、それを実証しましたがデビューが遅すぎました。イメージ 1
 画像はNPO立航博ビデオアーカイブス?よりのご紹介です。

ここで余談
  ① 中島飛行機が前身の富士重工で造られたスバル360は飛行機と共通する箇所がいくつかあります。
         それもそのはず、開発のトップは中島飛行機からの残留組の人。
  ② 新幹線開発には海軍航空工廠から来た人が携わったとか・・・・・しかしシャーシを見ると正に重機、電車は
    設計思想が異なるのか?
  ③ 同じ敗戦国のドイツの優秀な航空機メーカー・メッサーシュミット社が造った小型3輪自動車は外見やハン     
    ドルは飛行機に似ているが機構は飛行機屋が造ったとはとても思えない代物です(レストアをしての実感)

*前述の大手自動車メーカーの重役になった人は、若い頃自分が開発した飛行機のことを話すと止まらない、
  最後に放った言葉は ‟私は飛行機屋です”
これにはたまげた、高貴な誇りと自負心が感ぜられました。

     ‟ すごいなぁ、日本の飛行機屋は ”